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漱石先生と鷗外先生

漱石先生と鷗外先生

中3歴史で、夏目漱石先生、森鷗外先生が出てきた。名前だけの紹介に終わったが、実は私、二人の生家や小説舞台に足を運ぶほど深く陶酔していた時期がある。

二人の著作の中で、私が青年期に共感、感涙したものを載せておく。(どちらも著作権は切れているのでそのまま抜粋)

以下、鷗外先生「妄想(もうぞう)」の一部。

生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策むちうたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後うしろに、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策むちうたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが醒覚する暇ひまがないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後うしろの何物かの面目を覗いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭むちを背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。背後にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。

 

以下、漱石先生の「私の個人主義」の一部。上の「妄想(もうぞう)」の答えとも取れる内容。漱石先生でさえ悩んでいた、30歳過ぎても。読んだときに感涙し、身震いが止まらなかった。今でも時々読み返す。

もしあなたがたのうちですでに自力で切り開いた道を持っている方は例外であり、また他ひとの後に従って、それで満足して、在来の古い道を進んで行く人も悪いとはけっして申しませんが、(自己に安心と自信がしっかり附随しているならば、)しかしもしそうでないとしたならば、どうしても、一つ自分の鶴嘴で掘り当てるところまで進んで行かなくってはいけないでしょう。いけないというのは、もし掘りあてる事ができなかったなら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです。私のこの点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範になさいという意味ではけっしてないのです。私のようなつまらないものでも、自分で自分が道をみつけつつ進み得たという自覚があれば、あなた方から見てその道がいかに下らないにせよ、それはあなたがたの批評と観察で、私には寸毫の損害がないのです。私自身はそれで満足するつもりであります。

 

 

 

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