中3の11月のテストが返ってきたので更新。
(グラフは中3全員の平均。4月平均偏差値を基準0として表示)
集団で、この伸びは稀有なのでは。
なにより、生徒たちの頑張りが素晴らしい!
ふと、ブックオフに立ち寄ったら、
気になっていた本がなんと105円で売っていた。
大前研一氏の「ストラジテックマインド」。
ちょうど30年前、1983年の本。
本の中には、しおりが入っていた。
しおりと言っても、駐車場のレシート。
「1989年、勝田駅西口」
元読者は日立関係の人だろうか?
原研関係の人だろうか?
(大前氏の経歴が原子力専攻&元日立社員)
本の中には線も引いてあって、
「どんな人が読んでいたのだろう?今は何をしている人なのだろう?」
と感慨深くなった。
そういえば、以前は、
図書館の本には、貸出カードが入っていた。
(今はあるのか…)
その貸出カードに、憧れる先輩の名前が書いてあると、
難しくても必死で読んだものだった。
読書の秋ももう終わりだが、
1日10分でもいいから、本を読もう。
(読まないと、頭が空っぽになる!)
とある会話
「あの成績がいい生徒は、○○○をやっているらしいよ!」
「どこどこは、このテキストをやっているらしい!」
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私は学生のころ、参考書マニアだった。
今でも、塾教材、市販教材に目を通し、
新たな本がでればすぐ確認してみたくなる。
どこが何を使っているか把握もしている。
だから、上記のような会話は、その気持ちがとてもよく分かるし、
今でも時々、上手くいっているところの真似をしたくなる。
学生の頃は、この本(←リンク)を読んで真似をした。
(今でも毎年更新されて、本屋に並んでいる。)
記載されている参考書は、ほとんど解いた。
適当ではなく大真面目に解いた。
そこそこの結果は、出たかもしれない。
しかし、本の題名の通りにならなかった!
なぜか?
それは、
相関関係(関わりがあるだけ)と因果関係の違いを理解していなかったからだと思う。
つまり、参考書=合格の原因と思い込んでしまっていた。
数年前、「東大生のノートは必ず美しい」という本やノートが流行ったが、これも単なる相関関係。
いろいろ試すのは良いが、
相関関係と因果関係を混同しないようにしたい。(自戒の念を込めて)
塾の広告、営業マニュアルトークに
「勉強のコツを教えます」というのがある。
「お宅のご子息さんは、勉強の仕方、コツがわかっていません」などなど。
しかし、私は「コツ」とか「要領」とかいう言葉を聞くと、
ウソっぽいキャッチフレーズに聞こえてしまう。
イチローに、
野球の練習の「コツは…」と聞いて、
それを実践すれば、イチローみたいになれると思う人はいるだろうか?
同じように、勉強も「コツ」だけ言われて出来るようになるか?
私は、中学から大学までずっと寮生活を送ってきて、凄まじい成績を出す友人を目の前で見てきた。
半分寝てても東大に受かるような友人、旧帝大を首席で卒業して大学に残る人。
そういう友人に共通していえることは、
勉強の絶対量が多いということ。
本人は意識していなくとも、
中学~大学に至るまで、1日最低3~4時間は勉強していた。
逆に、地道な努力を軽んじて、「要領」だけで成績を出していた生徒は、間違いなく途中で脱落していった…
そもそも出来る人の「コツ」なんてものは、
大量の練習量の上に、その人にあった方法が自然と作られたものであって
容易に聞いてマネしたところで、どうにかなるものではないと思う。
「コツ」と言う前に、「コツコツ」やってから!
今年は、実家には帰らず、家で留守番。
それで、何をしているかというと、
問題解き!
全国の入試問題を全教科、全部。
まとまった時間が取れたこの機会に、
解きまくっています。
まだまだ、
若いもんには負けてられない!
人は「新しいこと」を学ぶのを楽しく感じる。
ネットで、どうでもいいような新着情報を知りたがる。
新しい知識を次から次へと入れようとする。
そして、そのほとんどを忘れ、何も残らない。
時間の浪費だったことに気付く。
大切なのは、
骨太の内容を何回も繰り返し復習し、
完全に自分のものにすること。
ザルで水をすくうべからず。
高校のときの参考書を、今でも時々読み返す。
その中に「新釈現代文(高田瑞穂)」という本がある。
難易度が高すぎて、昨今の受験には役にたたない。(大学文系でも)
しかし、受験を超えた「文を客観的に読むこと」の最終形は、
この本中の「論理の追跡」であると思う。
以下の記述。
現代文が苦手な生徒には耳が痛いか…
——–以下引用——–
※問題意識について
「現代文がわからないという場合の多くは、実はあなたがたの問題意識が極めて希薄であるか、または全然欠如していることの告白であると私は断言いたします。ここで是非一つ、あなた方一人一人、御自分の心をのぞいて頂きたいものです。何がありますか。もしそこにあるものが、単に、見たい、聞きたい、食べたい、行きたい等の、総括して自分の感覚を満たそうという願いだけだったとしたら、そういう人に、入試現代文が難解であるのは、当たり前ではありませんか。そういう人は、無理をして、自分の精神年齢を引き上げなくてはなりません。無理をすることがどうしても必要です。例えば、仲間が口をそろえてむずかしいという本があったら、無理をして、それを読破して、いややさしいと言うのです。批評家など盛んにほめるが、あんな小説―映画でもよろしい―のどこが面白いのかさっぱり解らないと友だちが言ったら、それを能く読み、熱心に見て、いや確かに面白いと言うのです。こういう無理は、青春期においては少しもみにくいものでも、恥ずかしいことでもありません。青春時代は人間的教養を身につけなくてはならない時期です。Cultivationとはもと耕作し、育成することです。それは、関心する世界を開拓し、そこからさまざまな収穫を得ようとする態度なのです。」
中3の授業があった。
テスト前の状況を確認したが、
目的と手段を混同してしまっている生徒が多くいる。
内申点のことを考えると
学校ワークを埋めて提出することは、一つの目的なのかもしれない。
しかし、これは最低ラインであって
重要なのは、その内容をしっかり頭に残すような手段を取って、
結果としての点数を出す、つまり学力をつけることにある。
このことを何度も授業中言って、その手段も紹介してはいる。
しかし、この公立中独自の“提出物”という呪縛は、本当に根が深い。
(難関私立に提出物なんてものはない。結果がすべて)
こういった誤った勉強法が、昨今の学力低下を生み、
有名私立と公立中学の学力格差につながっているのではないかと思う。
目的に対する手段を間違えると、どんなに努力しても結果は出ない。
教科書の内容よりも、
この「目的と手段の関係」を理解するほうが先かもしれない。
食べ過ぎる → 太る
陰口を言う → 信頼されなくなる
一生懸命やる → 結果が出る
種をまく → 芽がでる
当然の事だが、
何事も原因があって、結果がでる。
勉強も同じことで、
今の勉強への取り組み方(原因)を見ると、
テストを受ける前に、テスト結果が見える。
今度の中間(同時)テストもそう。
現在の状態でテストを迎えると、
このくらいの点数、順位という結果が、
すでに出てしまっている。
プラスのイメージがもてる生徒もいれば、
マイナスのイメージが出てしまっている生徒もいる。
プラスのイメージに持っていけるよう、対処せねば。